こんばんは。
インカレまであと21日となりました!

本日の担当は四国・中国地方の皆さんです👀
全体的にのほほんとしたいい笑顔☺️
これでもやる時はやってくれるメンツです⚡️
あれ?画面左端に1番目立っている子がいますね…?
選手…でしょうか???
彼等からも目が離せません👀
今日の練習の様子も紹介させてもらいます!

4年生の色男の成君♥️
まさか、カマキリまで魅了しちゃうとは…😳

またまた登場‼️水上さん&成&ともくん
今度は秘密のミーティングでしょうか🫣

新進気鋭の盛り上げ隊長さとよー📣📣📣
スイカを食べ慣れるまでもう少しかかりそうです💦

水上チームのメンバー達です💪
準備万端といった所でしょうか😏
レース当日が楽しみです🎶

恐らくこの写真も使って欲しいのでしょう笑
誰よりも酸いも甘いも知っている成、かましてやってくれよ👌
さて、ここからはラストブログに移らせてもらいます。
1年生の頃から共にFlyで切磋琢磨しあってきた杉山尚輝から引き継ぎました。大見碧士です!
まずは、僕を少しでも知ってもらうための身の上話に少々お付き合いください。
小説1冊読むくらいの気概で読んでください。長くはなりますが悪しからず。
幼少期から見た目に反して身体が弱く、病院のベッドに横たわっている記憶がほとんどで、意外と想像しづらい嫌な幼少期を過ごしていました。
少しずつ自由が利くようになった幼稚園の頃に、水泳一家だったこともあり、水に入るのも嫌いなのに、持て余した体力を消費させる名目でスイミングスクールに嫌々通っていました。
少し経ってから、地元にあった母の元所属クラブのJSSに籍を移し、この頃には水嫌いも克服し、SEVENTEENアイスに釣られて週2回のプールに通うのが楽しみになっていました。
僕の家は母子家庭なので母が送迎できない日は片道3kmの道のりを自転車に乗れなかったためキックボードで行き、帰りはバスで帰ったり頑張ってもう一度キックボードで帰るのを繰り返していました。
習いたての頃、母とはバタフライまで覚えたら辞めてもいいという約束で始めたのにも関わらず、なんだかんだ楽しくてあっという間に小学校3、4年生まで続けていってしまいました。
その頃にはコーチから選手コースに入って本格的に水泳をしてみないかという提案を受けましたが、当時の僕のマイブームはサッカーであり正直水泳よりサッカーをしたかったので母に頼み込んで地元のクラブチームに体験に行ってからどちらにするか決めるという話でまとまりました。
無事体験も終わり、感想としては「やべぇ、なにこれちょー楽しい」くらいの感じだったはずです。クラブチームの監督にも才能あるすぐ背番号渡せるから是非入ってくれと言われ、気分はもうサッカー選手。まさに有頂天でした。
帰りには母が車で迎えに来てくれ、その日に何点決めたか、自分がどれだけチームに必要とされているかを力説しました。
母も「良かったね〜」や「凄いね〜センスあるんだね!」と言ってくれ自分の将来が決まった様な気がしました。
友達と同じクラブに入れる嬉しさ、学校でみんなと同じようなスケジュールで動ける喜びを噛み締めながら水泳を辞めてサッカーをやりたいと母に伝えると母は僕にこう言いました。
「今日プルブイ買ったよ」
話が違う。
話が違うぞ母よと思いましたが、母はさらに続けてこう言いました。
「あの有名なリオネル・メッシはサッカーチームなんか入ってなかったし、やりたいなら自分でチャンス掴むくらい上手くなりなさい」と。
いや、メッシ多分だけど勝手にプルブイも買い与えられてないだろ…
もっと意味わかんねーよとも思いましたが、そんな事が言える相手ではなかったので結果渋々、選手として水泳に打ち込むことになりました。
今となってはいい笑い話ですが後に、この決断が自分の人生を動かしていくことになるとは考えてもいませんでした。
それから暫くして選手として頭角を現し始めたのは小6の終わり頃でしょうか、人生で初めて50mバタフライでJOの標準記録を突破したのがこの時期でした。
初の全国大会は予選落ちと上手くいかなかったものの、調子良く記録は右肩上がりで伸び続けていきました。
中2の終わり頃、またひとつの人生の分岐点につくことになりました。先祖代々医者の家系であったため祖母には幼い頃から口酸っぱく医者になるようにと言われ、とんでもない量の英才教育を受けさせられていました。
医者になるならそろそろ水泳も潮時だと考えた時に、中2の最後の試合までに全国で通用するタイムを出せなかったら医者になるために勉強に専念するという宣言を打ち立てました。
この時の僕のベストはせいぜい九州大会入賞程。
結果として中2の春JOで何故か優勝してました。
後にこれができた要因を書きますが、
期間にして約3ヶ月ほどで100mバタフライの自己ベストを3秒ほど縮めいつの間にか目標を達成していました。
成長期だった事もあり、身体の成長も著しく、中3では長水路でも記録が伸び、運良く全中でも優勝する事が出来ました。
この年は多くの事を経験しました。
てっぺんの景色、ナショナル合宿での全国の選手の強さ、自分が憧れを抱いた高校からのオファー…
目に入ってくるものが新鮮で刺激的だったのを今でも鮮明に覚えています。
それと同時に凄く辛い時期でもありました。
思春期の僕は母との折り合いが取れず、家にも居場所を作れない日々、訳あって実家とは絶縁関係、悪いことは続き母の自営するネイルサロンも経営難に。
水泳を中2で見切ろうとしたのもこれらが大きな要因でした。
母からは、「高校に行かせるお金がないから頑張って特待で行ける場所にしてくれ」と言われ、文字通り死ぬ気で練習したのを覚えています。
練習の甲斐あって前述の通り全中やJOで優勝を果たし、念願叶って天下の日大豊山高校に進学しました。
大都会に脅えながら上京し、3年間揉まれながらも何とかやってこれましたが水泳の結果としてはイマイチ、高3の夏前に腰を痛めギリギリでメンバーに入ったインハイではボロボロの結果で個人としての最終成績も全国で少し上の方に入るかなといったようなまま、進路決定も間近に…
中学とは違い呼んでくれる大学があるはずも無く、コーチに行きたい大学を聞かれても答えられないまま大学進学を諦めて自衛隊にでも入ろうとしていたところ、豊山との繋がりもあり中京大学の草薙先生からぜひ中京でやってみないかと誘いを頂き、中京大学に入学することになりました。
入学してからすぐは、自分で言うのもなんだけど正直4年では余裕でメンバー入ってるし、なんならインカレ1バタ優勝狙えんじゃね?って思ってました。結構マジで。
今の1、2年生からしたら何言ってんだコイツってくらいそんな片鱗すら見えたことないだろうけど、地味に速かったんです。
短水路だけだけど…🤫
そんな中1年の時こそギリギリメンバー落ちしたけど、2年生の時には高校生ぶりくらいのベストを出して1バタでメンバー入り‼️
初メンバーで意気込んで挑んだ結果は、、、
55秒35 49位
調子が良かった訳ではないけど、それ以上に自分が大舞台でここまでコケる人間だと思わなかった。何より、メンバーに入れなかったやつに顔向け出来なかった。
今まで殆ど挫折を味わった事がなかった人間としては、かなり応えた。
そこからというのは謎の体調不良も重なり、練習こそ速いものの試合でいまいち本領を発揮できない日々が続きました。
迎えた3年のメンバー選考ラスト試合、専門外の同期に敗れメンバー落ち。
正直ホッとした
悔しいって感情より、またあんな思いしなくていいんだと思ってしまった。
周りは「大丈夫、そこまで差がないからメンバーあるよ」、「リレー要員とかでもわんちゃんあるやろ」くらいに言ってくれてたけど、僕的には散々喧嘩した奴でもアイツなら大丈夫だろ、アイツならやってくれるだろ。そういう気持ちの方が強かった。
多分、ここがやれるやつとやれない奴の差なんだと思ったし、この感情が出た時点で、選手としての僕は死んだも同然なんだと思う。
無論、3年生の頃の僕はその器じゃなかったし、何より自分自身を一番信用できなかった結果でした。
4年生になると時間が経つのは早いもので、ラスト学年としてのかっこいい最後をとイメージをしたのも束の間、先月の静岡県選を最後に意外とあっさりと終わってしまいました。
どうなのかな、面と向かって聞いたりするのは恥ずかしいけど僕よりも僕の成長を祈り、信じてくれていた人がいたんじゃないかなと、ふと考えた時にやっぱり思い浮かぶのは水上さんと母。
言いたくないけど、4年生の頃には誰にも期待されてないことくらいわかってたし、自分が一番そうだった。
一年ずつ歳を重ねるごとに自分が書く予定のラストブログの内容とはかけ離れていった中で、水上さんだけは僕の才能を信じ、僕の正面から向き合ってくれていたような気がします。
物心ついた時から兄弟もいなければ父もいなかった僕からすると、いつしか水上さんがそんな存在と被っていたのかもしれません。
僕の勘違いじゃなければ、僕が「水泳」を諦めた時、一番負い目を感じショックを受けたのは水上さんだったんじゃないでしょうか。
正直今は水泳に気が向かないと僕が言った時、
「碧士が満足できる終わり方ができるならそれでいい」
と言ってくれていたけど、本当はこんな終わり方する僕なんか見たくなかっただろうなと思うとなんだか少しだけ時間を戻したい気持ちにもなるような…
ただ、今となっては学生コーチとしてチームに関わっている方がイキイキしていると胸を張って言えます。
これも、ひとえに水上さんのお陰です。
面と口にした事はありませんが、
約4年間ありがとうございました。
まだもう少しだけ迷惑をかけます。
覚悟してください。
まあ、あとは母。
正直、苦手です。
小さな頃からどう考えても間違った教育方針、
子供に勉強を教えられないほどの学力、何があっても僕を先に責め立てる要領の悪さ。
どれをとってもダメ人間の一級品です。
ただ、歴代のどんな偉人よりも、どんなに泳ぐのが速いスーパースター達よりも、どんなに著名な人よりも、、、メッシよりも
母を尊敬します。
なんだかんだ言っても唯一の肉親です。
この不況の中で頼れる人間も少ない中、女手一つで子供を大学まで行かせるのはまさに至難の業だったでしょう。
最後の最後に結果出せなくてすみません。
あとはやっぱり、
長い間文句を言いながらも水泳を続けさせてくれてありがとうございました。
もう少し迷惑かけさせてもらいます。
長くなってしまいましたが僕は中京に入り、
自分が知らない世界を教えてくれる先生方に感動し、引くほどフレンドリーOB、OGに憧れ、何をしても許してくれる寛大な先輩方に愛され、完全に舐め腐っているけどどこか憎めない後輩たち、
何よりもどの学校、どの学年よりも熱く、志の高い同期にも恵まれました。
そんな多方面の人たちに少しだけ書いて終わりにしようと思います。
先生方、
手に余る生徒だった事は重々承知しています。
それでも、こんな僕に居場所を与えてくれてありがとうございました。
結果で返せず、すみません。
応援でしっかり頑張ります!
お世話係、
飯もろくに連れて行ってあげられなくてごめんな。
特に白坂は愚痴ってたらしいから、あと1、2回くらいは白坂ぬきで皆で飯いこう。
強いて言うなら、どんなに生活が苦しくても誰かのものを奪ってまで生きようとかだけはやめてな、助け合えよ👍🎧
同期、

まさか、最後にこっち側に立ってものを言うとは…笑
男女共に、今年立てた目標は簡単には達成できません。
でも、なんかやってくれんじゃないかって凄く期待してます。
お前が言うなって思うかもしれないけど、お願いです。僕が夢見たてっぺんの景色をチームの一員として、もう一度味わわせてください。
帰りに美味しいお酒も飲めように頑張りましょう!
しゅーへー、
色んなところに連れ回してるせいで同期と仲良くできなくなるんじゃないかと思って最近は飯も行ってなかったけど大丈夫そうやな、また遊びに行こな。
4年のインカレまで粘れよ。絶対上がんなよ。
お前ならできるぞ。
本当に最後に、僕の座右の銘であり、好きな漫画の言葉を書いて終わろうと思います。
『歪んだ動機でも、打ち込めたヤツの勝ちだ。』
スポーツは誰も過程を評価してくれません。
どんなに動機が不純でも勝てばいいんです、勝ったヤツが正義です。
インカレ当日は無礼講です。
1年生だろうがHACだろうが是非、先輩、同期、後輩の背中を叩いて応援してやってください。
寄り道が多くなってしまいましたが、少しでも目を通して頂けたなら本望です。
男女共にインカレで笑えるように頑張りましょう!
明日は中京のアイドル、わかちゃん❣️
注目です!!!



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