当たり前から見つけたもの

こんばんは。4年佐々木博康です。日頃より、中京大学体育会水泳部への応援・支援に感謝申し上げます。本日からラストブログ開始です。栄えある一番手を務めさせていただきます。はじめましての方も、私の文章を読んだことのある方も、たまたま読むことになった方も、長旅になるとは思いますが、最後までお付き合いしてしていただけると、幸いです。

 

 

私の中で水泳とは何だったのかと考えると、それは人生の一部に組み込まれた「あたりまえ」でした。日常の中で考えることもなく、いつも存在している、そんなものだったと思います。皆さんにもそんなものがあるかと思います。しかしそれに気が付いたのは私がジャパンオープンを突破できず、学生コーチとして水の上にいるときでした。

私は4月に学生コーチとなり、水の上からサポートする日々を送っています。その中で今まで感じたことのないような喪失感や悔しさそして劣等感を感じました。その時水泳とは、私の人生であり、当たり前であったんだなと感じました。同時に悔しかったりするのはタイムが切れなかったことではなく、自分自身で見切りをつけたしまったことなのだとも気が付きました。ではなぜ、そんなことになってしまったのでしょうか。

それは自身の中に「絶対」を確立できなかったこと。にあると思います。結果を出す人は「○○をすれば絶対に大丈夫」や「これだけやったから絶対に大丈夫」という自分を信じられる絶対があると思います。私はそれを最後まで作り出せなかった。作り出せなかったからこそ、やり切ったという想いよりも後悔や悔しさが先行しているのだと思います。

もう一つ、私が悔しさを感じている要因は自分や友人との誓いをやり遂げれなかったからでしょう。

一人目は兄についてです。私が水泳をはじめた、そしてこの大学に入るきっかけを作ったのは、家族の中でも特に兄が関係していると思います。兄は常に出来が良く、勉強もスポーツも完璧にこなすような、私から見たらパーフェクトな兄でした。私はそんな兄を常に追いかけていました。小さい時から何をやるにも一緒で、勝ちにいっていました。兄は春日部共栄高等学校に進学しました。私も活躍や雰囲気を目の当たりにし超えたいという一心で同じ高校に進学しました。その後、大学については、兄は京都の某大学に進学し4年間でインカレに出場しました。電話口で聞こえてくる事柄は苦しそうなことばかりでしたが、結果を出し、京都での生活を謳歌しているように感じた私は、同じ大学に進学することを考えていました。しかし、学力が足りずそして運よく中京大学に入れそうということで断念しました。入学してからというもの兄が突破できなかったジャパンオープン・日本選手権を突破し、インカレに出るということを目標にしました。しかし、結果として何もできずに終わってしましました。この結果が私の一番の後悔であるのかもしれません。

2人目は、同期です。個人名は出さないですが、私と同じ高校の同期です。7年間一緒に水泳をして、最後にはインカレで活躍して、恩師の元へ行く、そんなことを話していましたね。一緒にインカレに出られず、背負うこともできなくて、本当に悔しいです。

 

これまで私の後悔について話してきましたが、この大学に入学しよかったと思うことも多くあります。1つは「科学」に触れる機会をいただけたことです。この大学に入学した目的の一つにはスポーツ科学を学ぶことがありました。確か、志望理由書には科目名まで書いたと記憶しています。2年生までは授業を受けただ学んでいるだけでしたが、3年生になると、転機が訪れます。それはゼミです。私はサッカーが水泳と同等かもしくはそれ以上好きで、ゼミ選びもそれを軸に考えました。Jリーグという舞台に少しでも近づけるのではないかという邪な考えもあり、サッカーを用いて運動生理学を研究する大家利之先生のゼミに入りました。入ってみるとサッカー部が多く始めは心配でしたが、すぐに打ち解けられ、GPSをつけてサッカーをするなど普段ではすることのできないような体験を多くできました。そんなある日、先生からあることを提案されます。「大学院は興味ない」と。私は就職が当たり前と考えていたため、頭を殴られたかのような驚きを感じました。そこからいろいろな人に相談し、まずは進学奨励生として、研究室に席をもらうこととしました。奨励生として過ごしているうちに、今まで触れたことのない「科学」に触れ、もっと探求したいというように強く思うようになり、結果として大学院に進学しようと決断します。小さい時から博物館に通い詰め、展示を覚えてしまうような子供だった僕。そしてその環境を提供してくれた元エンジニアだった祖父。そんなことから考えると導かれたとも考えられますが、この道は中京に入っていなければ、見つけられなかった道でしょう。

もう一つは人との出会いです。水泳部は4学年で100人を超える大きな組織です。私が入学したときにはOB・OG もたくさんいらしたこともあり、いろいろな人と出会えたと思います。特に個性豊かな同期に出会えたことは一生の財産だと確信しています。それ以外でも、学内に多くの知り合いができました。多種多様なスポーツの人が、全国から集まる中京ならではのことだと思います。

 

まとまりがなくなってきたので最後に感謝や私の得た教訓を話して終わろうと思います。

 

両親へ

中京大学へ進学したいといった夜。私は父にとても反対されたことを覚えています。理由は埋もれてしまうから。言われたとおりになってしまいました。覆そうと思っていましたができませんでした。悔しい思いばかり感じさせていたと思います。それ以外でもたくさん心配をかけました。寿命を縮めていたと思います。本当に、心の底からごめんなさいといいたいです。しかし良かったと思うことはこれ以上です。さっき述べた科学のことも、出会った人のことも。それ以外にも高校から私立で夢を追わせてくれたことも。だからごめんなさいよりも大きな声で言いたい。「ありがとう」と。そして2年という時間を与えてくれることにも感謝したいと思います。この2年間で、どんな結果が出るか、将来をどう決めるかは今はまだわからないですが、実り多き2年にすると約束します。これからもよろしくお願いします。

 

理想の、超えられない人でした。悔しいですが。でもいつか必ず超えてみせます。身長でも。その時を心して待っていてください。

 

恩師 戸川晴夫先生

私は先生に幾度となく人生を救っていただきました。先生には競技者としてのレベルを向上させるだけでなく、社会で生きるために必要なことを多く教えていただけたと思います。特に入学前から、確か12月の終わりごろに練習参加させていただいたこと、中京大学という道を見せてくださったこと、大学に進学してからも、相談に乗っていいただいたり、練習も見ていだいたこと。感謝したいエピソードを上げるときりがありません。感謝してもしきれません。本当にありがとうございます。また共栄に行きます。その時じっくりとお話ししましょう。

 

スタッフの皆さん

インターハイの標準も切れていなかった私にインカレ・日本選手権などの夢を見られる位置にまで引き上げてくださり、本当にありがとうございます。わけのわからない行動が多く、手のかかる選手であったと思います。心中お察します。しかし、私はまだあきらめていません。今後もお世話になりたい考えています。そのお話は近いうちにさせてください。そして、涙はインカレまで取っておきましょう。インカレまでよろしくお願いします。

 

同期

つかみどころがなく、わけのかからない人間だったと思います。たくさん迷惑もかけました。すみません。普段多くは話さないし、何考えているかわからないだろうけど、本当にあなたたちの同期になることができて、心の底からよかったと感じています。特に3年生になってからそれは多く感じました。一番私が感じたのは、津田のチャレンジレースです。ビデオには割れんばかりの声援が入っていました。本当に感動しました。純吾にふとした時に言われた「お前、速くなったな」の言葉は少し認めてもらったような気がします。あと20日余り。私は一緒に泳ぐことはできないけれど、全力でサポートします。そして全員で、24人で天皇杯と奥野杯を空に掲げましょう。最後までよろしく!

 

後輩の皆さん

私からは最初の話の中にあった、「絶対」を自分の中に持ってほしいです。そうすれば自信も自然と沸いてきて目標や夢が近づいてくるはずです。私の入学時よりレベルの高い皆さんならできると信じています。

高校の同期

インカレとかで泳いでいる姿一回も見せられなかったです。それは本当に悔しいです。でも、共栄でのチームで戦った3年間、卒業してからも連絡がすぐにできる関係性。一生の宝物です。あの時がなかったら今の僕はないと思います。本当にありがとう。今年も集まりたいですね。浅見さんよろしく!!

 

応援してくださった方へ

名前を出していたら終わらないのでまとめさせていただきます。佐々木博康を応援してくださってありがとうございます。期待に応えることはできませんできたが、皆さんの応援、支援は本当に力になりました。ありがとうございました。

 

本当にまとまりのない文章ですが、最後はこの分で締めたいと思います。

 

夏草や 兵どもが 夢のあと

 

有名な芭蕉の句。確か中学校の国語の教科書に掲載されていたと記憶しています。皆さんは自分自身が「夢のあと」となったような記憶はあるでしょうか。私は感じています。まさに最後の風景を刻んでいるの瞬間なのだと。

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